1.スタジオが映す変化
ボーカルレコーディングの現場にいると、来室する人々の顔ぶれの変化が、文化の変化よりも先に見えてくることがあります。
ここ数年で気づいたことがあります。スタジオを使う人の総数が変わったわけではありません。ただ、そこに持ち込まれる「目的」の質が変わってきています。かつて多かった歌ってみた界隈の若い活動者——初めてスタジオの扉を開ける緊張を全身にまとい、録音という行為そのものに意味を見出していたあの層——の姿が、以前よりも少なくなっています。代わりに増えているのは、既存の音楽発表構造の中で活動する人々、たとえばボーカルスクールの講師が生徒募集のためのデモ動画を制作する、あるいはSNSや短尺動画向けのサビだけの録音を依頼する、そうした専門的・業務的な利用です。
この変化は、スタジオの景気とは別の話です。問いたいのは、ある種の「意志的な音楽行為」——夢想から始まり、技術を獲得し、世界に向けて声を届けようとする一連の衝動——が、この界隈においてどのように変質しつつあるか、ということです。スタジオというのは、文化の欲求が物理的な形を取る場所です。そこに何が持ち込まれ、何が持ち込まれなくなったかを観察することは、文化の体温を測ることと同義に近い。
2.プラットフォームの上に建てた文化の脆さ
「歌ってみた」という言葉は、2007年5月にニコニコ動画がそれをカテゴリタグとして正式採用したことで、文化的な固有名詞になりました。ただし、この出自が示すことは重要です。この文化はプラットフォームによって命名され、プラットフォームによって可視化されてきたのです。
2024年6月のランサムウェア攻撃によるニコニコ動画の約2カ月にわたる停止は、その事実を改めて照らし出しました。文化的な行為そのものが失われたわけではありません。しかしその文化が「見える場所」が消えたとき、何が起きるかが明確になりました。投稿できない、ランキングに載らない、コメントが流れない——それはただの機能停止ではなく、この文化が生命維持のために依存していたインフラの喪失に等しい出来事でした。
さらに、2025年に実施されたニコニコ動画のランキングシステムの大幅改変は、より根本的な問いを突きつけています。「歌ってみた」「VOCALOID」タグランキングへのアクセスが悪化したとして、ユーザーから強い批判が起き、運営が修正対応に追われました。この騒動が示すのは、プラットフォームの設計がすなわち文化の可視性の設計であるという事実です。アルゴリズムを変えることは、誰の声が届き、誰の声が届かないかを変えることです。文化がプラットフォームの上に建てられているとき、その土台の変更は、居住者の意志とは無関係に起こります。
もちろんニコニコは2024年8月に「帰ってきたニコニコ」として復旧し、歌ってみた最大の投稿祭「歌コレ」は2026年春も滞りなく開催されています。次回秋の開催も9月24日から28日に決定しており、17年以上この界隈を観測し続ける「週刊歌らん」の筆者が指摘するように、ニコニコはいまも新しい才能を発掘するインキュベーターとして機能しています。しかし総務省の調査によればニコニコ動画の国内利用率は13.7%であり、YouTubeの9割超とは圧倒的な差があります。文化の「発見の場」としてのニコニコが機能し続けているとしても、その文化の主たるリスナー層はすでにYouTubeにいる。この乖離が今後どのような形で文化の継続に影響するか、注意深く見る必要があります。
週刊歌らん作者ブログ「2025年の歌ってみたタグ界隈に関する雑感」(2025年12月31日)
歌ってみたCollection公式サイト・歌コレ公式X(@uta_colle)
総務省情報通信政策研究所「令和5年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」(2024年6月)
3.担い手という問い
現在、この文化を最も濃密に支えているのはどの世代でしょうか。現場での観察と、界隈の動向を照らし合わせると、20代後半から30代前半の女性が主軸になっているという印象が強まっています。
この印象には、文化の時間軸から見ると、ある種の必然があります。「歌ってみた」がニコニコで産声を上げた2007年前後、その後の隆盛期である2010年代前半に10代を過ごした世代は、まさに今そのゾーンに差し掛かっています。彼女たちにとって、コメントが画面を流れ、好きな歌い手の新着動画を心待ちにし、マイリスト登録という行為に意味を見出した経験は、単なる思い出ではありません。自分のアイデンティティの基層を成す体験として、現在進行形でこの文化と関わり続けています。文化の「記憶の持ち主」が、そのまま文化の「現在の担い手」でもある。これは、ある文化の成熟を示すと同時に、更新の困難さをも示しています。
一方、10代後半から20代前半、つまりこの文化の次世代となるべき層の流入が、明らかに細くなっています。マイナビが実施した「10代女子が選ぶ2025年上半期トレンド」を見ると、音楽部門の上位はK-POP、アニソンタイアップ、日本のアイドルグループが占めており、歌い手・歌ってみた文化への言及はありません。高校生新聞が2213名を対象に実施した「2025年に流行した曲」調査でも、TikTokダンス系・アニメ主題歌・K-POPが上位を独占しています。この世代がもっぱら音楽を「消費」する方法も、ショート動画プラットフォームでの15秒から1分の視聴と参加型のダンス投稿です。Z世代のYouTube利用率はおよそ9割と依然高いものの、長尺動画を腰を据えて視聴し、投稿者を「推す」という継続的な関係性を結ぶ文化的行動は、この世代のタイムパフォーマンス重視の時間感覚とは構造的に噛み合いにくい。
高校生新聞「高校生2213人が選んだ『2025年に流行した曲』ランキング」(2025年12月)
株式会社ガイアックス「Z世代に刺さるSNSはどれ?最新コンテンツマーケティングガイド【2025年版】」・各種調査(2024年)
より本質的なことを言えば、「歌ってみた」という行為は単なるコンテンツ投稿ではありません。楽曲を選び、カラオケ音源を用意し、録音し、ミックスし、動画を作り、投稿し、コメントを通じてリスナーと対話する——この一連のプロセスは、時間と技術と意志の総体です。「スマートフォンで手軽にできる」というイメージが流通していますが、未経験の若いシンガーが独力でプロに近い音質を確保することは容易ではなく、その実現困難さが、この文化への参入の敷居を実質的に高めています。参入の手続きが簡略化されたように見えて、実は参入を動機づける文化的な重力が弱くなっている——そちらの問題のほうが、より深いところにあるのかもしれません。
4.成功の可視性と、不可視の現実
「歌ってみた」を起点にした成功の物語は、今もはっきりと存在します。歌い手グループ「いれいす」は2022年のメジャーデビュー以降、武道館、ドーム、そして2025年夏の全国アリーナツアーで9万人を動員するに至りました。「吉乃」は2024年秋クールにアニメ2作品の主題歌を同時担当するという異例の形でメジャーデビューを果たし、ホロライブ所属の星街すいせいは2024年にさいたまスーパーアリーナでのライブを実現し、代表曲「ビビデバ」は2024年末時点でYouTubeに約9,800万回の再生数を記録しています。
リスアニ!「歌い手・吉乃、異例のクールアニメ2作品同時主題歌!メジャーデビューシングル2作品のリリース情報解禁!」(2024年)
ただし、こうした成功例が持つ引力について、少し立ち止まって考える必要があります。これらの事例は、界隈の現実の一端を示していますが、その一端は最も明るく照らされた部分です。2025年時点でVTuber・Vライバーの総数は5万人規模にのぼるともいわれますが、個人勢でデビューした活動者の多くは年収10万円にも満たないのが実態です。YouTubeの収益化条件——チャンネル登録者数1000人、年間視聴時間4000時間——を達成できないまま活動を続けるケース、実質的な収益ゼロで継続している活動者は珍しくありません。
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問題はさらに構造的なところにもあります。VTuber・VSinger事務所の多くは、合格後の収益分配率を外部に開示しません。事務所によって固定給・歩合・その組み合わせと異なる契約形態が存在しますが、タレント側が合理的にリスクを判断できる情報は与えられていない。2024年にホロライブやにじさんじから主要メンバーの活動終了が相次いだことの背景に、この不透明な構造への不満が潜んでいたという見方は、業界内で広く共有されています。
そして東京集中という問題があります。VSinger事務所の大多数は東京に拠点を置いており、リアルライブやスタジオ収録が主要収益源となるビジネスモデルでは、東京圏外に在住するタレントは物理的・経済的に不利な立場に置かれます。「東京に住んでいることが前提」という暗黙の規範は、地方在住のクリエイターにとって参入コストを実質的に引き上げる障壁です。インターネットが「どこにいても届けられる」という可能性を開いたはずの文化が、その実現を支えるビジネス構造においては、旧来の東京一極集中と変わらないという逆説が、この界隈に存在しています。
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5.コロナ禍という膨張と、その後
2020年から2022年にかけてのコロナ禍は、VTuber・歌い手文化の爆発的な拡大期と重なりました。巣ごもり需要と配信視聴の急増が生んだ特需は、多くの参入者と多くのリスナーを一気に呼び込みました。しかしこれは、文化としての成熟によって生まれた成長ではなく、外部環境の異常によって生まれた膨張でした。
2022年以降、社会活動の正常化とともに視聴時間は収縮に転じますが、その間に市場に参入した活動者の数は増えたままです。競争は激化し、パイは縮んだ。この「段差」の前後で、界隈の空気は明らかに変わりました。コロナ禍の熱量に動かされてこの世界に入った若い層の多くは、収益との接続が見えないまま、あるいは見えにくいビジネス構造の前で立ち止まったまま、次の一歩を踏み出せずにいます。
冒頭で触れたスタジオの変化は、この文脈の中に置いたとき、別の輪郭を帯びます。専門家が業務として使う録音から、夢想を抱えた活動者が初めてマイクの前に立つ録音へ——後者の比率が相対的に下がっているとすれば、それは文化の「入口のエネルギー」が変質しつつあることを示しています。文化を前進させる力の相当部分は、いつの時代も、まだ何者でもない人間の無謀な意志から生まれます。
6.文化が世代をまたぐということ
最後に、最も本質的な問いを立てておきたいと思います。この文化の「次の担い手」は、どこから来るのでしょうか。
現在の主要な担い手は、この文化とともに育った世代です。彼女たちが年齢を重ねれば、文化も共に変化します。それ自体は自然なことです。しかし問題は、その下の世代が同じ経路でこの文化に接続しているかどうかです。ニコニコのインキュベーター機能は今も働いており、歌コレがスターを生む見本市として機能し続けているとすれば、文化の連鎖はかろうじて続くかもしれません。しかしそれは、ある種の「意志的な参入」を必要とします。
10代のZ世代が歌ってみたに無関心なのではありません。彼らは音楽を深く愛し、カラオケに行き、好きな曲を口ずさみます。ただ、その愛し方が異なります。丁寧に録音して投稿し、コメントでリスナーと対話し、歌い手として認知されていくという時間軸の長い文化的行為は、15秒で完結するコンテンツの体験とは、根本的に異なる時間の使い方を要求します。どちらが良い悪いという話ではなく、両者の間には相互に乗り越えにくい時間感覚の差があります。
「歌ってみた」という文化が示し続けてきたのは、声ひとつで世界に届けられるという可能性の感覚でした。その感覚が、いま、プラットフォームの変容と世代の交代と、ビジネス構造の不透明さと、東京集中という地理的障壁の前で、静かに問い直されています。そこに、人間の声を精巧に模倣する音声合成AIの進化という問いが重なりつつあることも、書き添えておかなければなりません。声の固有性とは何か、生身の人間が歌うことの意味とは何か——この問いは、技術によっても制度によっても、まだ決着がついていない。答えはまだ、どこにも書かれていないのです。
注・出典
- 株式会社ドワンゴ「8/5ニコニコサービスの再開と新バージョン『帰ってきたニコニコ』のお知らせ」(2024年8月5日)
- 週刊歌らん作者ブログ「2025年の歌ってみたタグ界隈に関する雑感」(2025年12月31日)
- ニコニコ大百科「ニコ動ランキング改変2025」
- 歌ってみたCollection公式サイト・歌コレ公式X(@uta_colle)
- 総務省情報通信政策研究所「令和5年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」(2024年6月)
- 株式会社マイナビ マーケティング・広報ラボ「10代女子が選ぶ2025年上半期トレンドランキング」(2025年)
- 高校生新聞「高校生2213人が選んだ『2025年に流行した曲』ランキング」(2025年12月)
- 株式会社ガイアックス「Z世代に刺さるSNSはどれ?最新コンテンツマーケティングガイド【2025年版】」・各種調査(2024年)
- いれいす公式YouTubeチャンネル・Wikipedia(2026年4月時点)
- リスアニ!「歌い手・吉乃、異例のクールアニメ2作品同時主題歌!メジャーデビューシングル2作品のリリース情報解禁!」(2024年)
- ライバー探検隊「VTuberは収益化が難しい?稼ぎすぎに注意?もらえる月収の割合・条件や収入ランキングを紹介」(2025年10月)
- Qooo!!「【26年4月最新】VTuberは稼げる?年収は?稼ぐ仕組みからおすすめアプリまで分かりやすく解説」(2026年4月)
- VSingerオーディション情報局「VSingerとは|人気ランキングやVTuberとの違い、なり方など分かりやすく解説」(2025年12月)
- MoguLive「志望者必読!VTuberオーディション情報まとめ【2026年1月】」(2026年1月)
- Wikipedia「歌ってみた」(2026年3月4日確認)