生成AIの“陳腐化”と、録音という表現の再評価

はじめに

2025年11月の時点で、生成AIをめぐる空気には、ある種の変化が確かに存在しています。初期の驚きやワクワク感はひとつのピークを迎え、次の段階として「量があふれ、質が平準化した」ことへの違和感が社会に浸透し始めています。こうした変化を「生成AIの陳腐化」と捉え、録音・音楽・声の世界において、あらためて「人の手による実感」が表現として再評価されていることを、本稿では論じます。

生成AIと「質の均一化」の現実

生成AIの拡大は、ほとんどの産業分野において既定路線となりつつあります。たとえば、McKinsey & Company の報告によれば、組織の88 %が1つ以上のAI業務を定常的に利用しており、昨年の78 %から上昇しています。 同時に、研究機関は「AI飽和(saturation)」の現象を論じ始めました。Brookings Institutionの分析では、AIが爆発的に拡張する一方で、物理的資本・労働資本の成長とは非対称であるため、「質」が希薄化し得ると指摘されています。

さらに、インターネット上の文章において、AI生成の割合が少なくとも30〜40 %に上るという研究報告も出ています。 このように、生成AIがもたらす「生産力の拡張」と「質の平準化」という両面は、同時に進行しており、「量はあるが印象に残らない」アウトプットが増えつつあることが裏づけられています。

「AIスロップ」という語彙の成立とその意味

「AIスロップ(AI slop)」とは、生成AIによってつくられたコンテンツのうち、「努力や意味の深さを著しく欠いた、ただ量産されたデジタル・アウトプット」を指す蔑称的用語です。 この語が生まれた背景には、SNSや検索結果、動画フィードにおける“似たもの大量化”という現象があります。 具体的には、同じ構図・同じ色味・似たようなテーマというアウトプットが氾濫し、「新しい何か」を探しているはずのユーザーに、「もう見た」「また同じ」といった疲労を抱かせるようになった点です。 そしてこの体験こそが、生成AIが“定着”から“陳腐化”へと移行している証左だと言えます。

音楽・録音の世界における「量産」と「実感」の対立

生成AIは音楽分野にも深く浸透しています。ブラインドテストでは、AIによる作曲・演奏と人間のそれを聴き分けられないというデータも出てきました。 しかし興味深いのは、リスナーの心理が「区別できるかどうか」ではなく、「知っていたい/ラベルが欲しい」という方向に傾いていることです。 つまり、耳では区別できないとしても、心のなかでは“誰かが演奏した音”を求めている。 この傾向は、「量産されたAI音楽=背景として流せる」という実用観と、「誰かの声・身体・息遣いが宿った演奏=記憶に残る作品」という価値観との間にギャップが生まれていることを示しています。

録音の現場においても同様です。自宅録音、AI補正、テンプレート化されたミキシング……。技術的には「より簡単に」「より速く」作品を出せる時代に入っています。しかし、そこに“音の現場が記憶する痕跡”がなければ、どこかで「それっぽさだけ」が残るだけになりかねません。だからこそ、録音スタジオという場が、量産の輪の外にある「手応え」「身体の動き」「息を使った演奏」を担保する意味を持ち始めています。

タイムラインが“それっぽい何か”で埋まるという感覚

SNSや動画サービスをスクロールしていると、「ああ、またこの画/またこの構図だ」という既視感に出会うことが増えませんか。構図・色・メッセージが似通っており、クリエイター名も背景も見ずに、次へ次へと流れていく。 この体験は、まさに「タイムラインが“それっぽい何か”で埋まる」瞬間です。 私たちは、情報を探しているのではなく、情報に囲まれてしまっている。検索はできるが、何を探したいかを見失っている。こうした空気感は、生成AIの量産が「飽和」しているという実証的傾向と軌を一にしています。たとえば、SEO企業の報告では、AI生成記事と人間が書いた記事が、検索上位表示においてほぼ肩を並べ始めているというデータも出ています。

これを表現すれば、こうなります。

「最初は新しかった。だが、いつしか何を見ても“それっぽい何か”だった。
そして、人間の作品を探すために、私たちは手間をかけて検索を始めている。」

「陳腐化」の先にある表現の再評価

生成AIの“陳腐化”とは、決して技術の失敗ではなく、社会的な反転とも言えます。量産されたものが“背景”になるほど、人は逆に“手づくり”に目を向けるようになる。 出版界では「AI不使用」を示す認証が登場し、コミュニティではAI画像を排除するケースが増えています。 この流れは、録音・音楽の世界にも波及しています。誰かの声、誰かの息遣い、誰かの手の動き――そういった“人の在り処”を感じる表現が、量産されるAI作品との差別化要因として、むしろ価値を持ち始めているのです。

スタジオという場は、まさにその価値を物理的に担保する場所です。 AIで粗く作られたデモ音源を、実際に録音し、演奏し、音を出し、空気を震わせる。 そのプロセス自体が「これは私の作品だ」と言える印になる。 生成AIの時代だからこそ、「録音」という行為が、量産の潮流の外側で、“存在を記録する行為”としての意味を取り戻しているのだと思います。

神宮前レコーディングスタジオの使命と展望

私たち神宮前レコーディングスタジオは、決してAIを否定するわけではありません。むしろ、生成AIという潮流を理解し、その活用と限界の両面を見つめたうえで、「人が声を出し、演奏し、息を使って録音すること」の価値を、静かに、しかし明確に提示していきます。

AIで作られた音に、最後の一手として“呼吸”を付け加える。 録音という丁寧なプロセスを通じて、作品が“消耗されずに残る音”へと変わる。 このスタジオが、生成AIの傾向が見せる「陳腐化」の先にある、表現の再評価を担う場所になることを、私は確信しています。

おわりに

生成AIの時代において、「量」だけでは満たされないことが、少しずつ浮かび上がっています。量産された“それっぽい何か”に囲まれて、人は逆に「誰かがしてくれた行為」「身体と息の動き」「音の記憶」を探し始めています。 それは、録音という行為が過去に持っていた意味を、再び現代に取り戻す旅でもあるのです。 この旅において、スタジオは単なる設備ではなく、編集点であり、余白であり、そして“音の証言”を記録する場所として、新しい役割を担っています。 生成AIの先にある「人の声」を、私たちは静かに、しかし確かな手応えで描き続けたいと思います。