柳明日菜監督の「レイニーブルー」を観たあと、胸の奥にひとつの嬉しい衝撃が静かに残りました。
映像は決して派手ではなく、むしろ確信的な「10代の監督が初めて作ったビビッドな映画」風で、音も言葉も2020年代前半の空気感で綴られています。けれど、その抑制の奥で佇んでいるものは、明らかに“自己表現を妨げるものへの強い抵抗感”だと感じました。青春映画という表層の衣をまといながらも、その内側に息づくものは、もっと根深く、もっと切実な衝動のように感じられました。
主人公の蒼が部室で見つけた、古びた一冊の脚本。それは彼女にとって、自己表現への扉であり、〈自由に尊敬する対象を選ぶ権利の自覚〉であり、自分の中で眠っていた感情を呼び起こす引き金でもありました。柳監督はこの“発見”を通して、少女が自分の歩調で進み始めるまでの過程を描いています。
〈価値観の再定義〉。この映画を観て、私はこの言葉と、高校生の頃に初めて観た石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』を思い出しました。あの作品に触れたときの、胸を刺すような熱と混乱が、再び身体の奥から立ち上がってきたのです。
石井監督が描いたのは、暴走する若者たちの破滅ではなく、どうしようもない孤独の中で「生きていることを確かめたい」という衝動でした。柳明日菜監督の『レイニーブルー』もまた、静けさと青春性の中に同じ衝動的エネルギーを抱えています。蒼はバイクで疾走しないし、バズーカをぶっ放したりしません。しかし、彼女の行動全てには、自己表現に関する強烈な意志が宿っています。
1980年、石井聰亙は街を走る暴走族のエネルギーを、火山の噴火のような衝動としてフィルムに焼き付けました。2020年代、柳明日菜は自己表現へ向かう圧倒的なエネルギーを、呼吸のような高校生の日常とユーモラスな非日常を借りて描きました。
かつて反抗は「外に向かう爆発」でしたが、いまは「内側に潜る行動」へと変わりました。柳監督の映画には、反抗ではなく、〈好きなものを自らの力で選択する力〉があります。痛みや孤独を排除するのではなく、それを抱きしめながら、少々の微笑みを纏いながら自分のままで立ち上がり歩き出す勇気。「誰かに好かれるため」でもなく、「正しい大人になるため」でもない、生の輪郭を見つめる眼差しが、そこにはあります。
2025年という同じ時間の中で、『狂い咲きサンダーロード』がリバイバル上映され、『レイニーブルー』が「ゆうばり国際ファンタスティック思い出映画祭」で、監督ご自身の編集バージョンで上映されたことには偶然以上の意味があるように思います。
石井聰亙が描いたのは、社会からはみ出しながらも“存在の証”を求める若者たちの姿でした。柳明日菜が描くのは、社会の中で、辿々しいけれど自分の視座を持った“心の自由”を探す若者たちの姿です。彼らは立つ場所も時代も違うけれど、どちらも「生きることを自分で選びたい」という願いの表現です。
両者の根底には、「映画を撮ることでしか、自分の心を救えない」という切実さがあります。石井聰亙は、爆発する映像と音の中で、自分の焦燥を燃やし尽くしました。柳明日菜は、自分の存在価値や居場所、若者の迷いや大人との関係性をひとつずつすくい上げていきます。どちらも映画という手段でしか、息ができなかった人たちです。だからこそ、その作品は観る者の心を直接、共鳴させます。
『レイニーブルー』のラストで蒼が歩いて見せる海床路は、未来を約束するものではありません。それは、不安なままでも前へ進む覚悟の表現です。かつて『狂い咲きサンダーロード』の主人公が、爆走の果てに消えていったように、蒼もまた、自分の中の“サンダーロード”を〈早歩き〉しているのだと思います。
エンジンの音は聴こえないけれど、蒼の心の震えや不安や決意は、観客の心の奥で確かに響いています。
タイトルの「レイニーブルー」は、雨の憂鬱ではなく、むしろ“青”という希望の色に通じています。柳監督の描く「青春性」は、誰かを無自覚に扱うためのものではなく、未来を見つめる不安と期待が入り混じった眼差しに変わっていきます。17歳の蒼の孤独は、過去の物語ではなく、今を生きる多くの若者たちが抱える静かな現実そのものです。
そして、同じ年にこの二つの映画が共鳴したという事実こそ、時代が変わっても人の心が抱える迷いは変わらないという証なのだと思います。迷いながらも、前に進もうとするその姿勢こそが、映画という表現を生かし続ける海床路=サンダーロードなのです。