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北の空の下で

10月の夕張は、風の音さえもゆっくりしています。町のはずれを歩くと、どこかからストーブの煙の匂いが流れてきて、山肌を渡って消えていきます。灰色と群青のあいだをゆらぐような空。その曖昧な色の層に、季節と記憶が重なって見えました。

私は10代まで、岩手の釜石で育ちました。山が海に迫り、海が山を削るような、急な地形の町でした。海と山の間のわずかな平地に家々が並び、朝の光はいつも遅れて届きました。空は狭く、青さは遠く、空気には潮と鉄の匂いが混じっていました。だからこそ、少年だった私は、いつか広い空の下で生きたいと願いました。都会に出れば、その願いが叶うと信じていたのです。

けれど、東京の空は思いのほか低く、風はビルの隙間を抜けて背中を押し、知らぬ方角へ心を持っていきました。夜明け前から動き出す都市の風は、いつも急ぎ足で、立ち止まることを許しませんでした。人と人の間に吹く風は、いつも少しだけ冷たく、何かを追い越していくばかり。あの街では、空は「自由」ではなく「目標」であり、私はその空に、ただ自分のちっぽけな座標を見定めることしかできませんでした。広い空のつもりで見上げても、それはただの“天井”でした。

そんな私が、いま北海道の空の下にいます。見渡す限り、どこにも遮るもののない空。生ぬるい風が、ゆっくりと頬を撫でます。夕張のこの空には、「都会」という幻の影がありません。自然が、ただ自然のままに在る。風の粒子までもが、何かを語っているようでした。

私の父と母は、若いころ北海道で出会いました。この大地で恋に落ち、兄が生まれ、やがて母が私を身籠ったとき、家族は岩手に移りました。だから私は、北海道の風の記憶を、母の体を通して受け取っているのかもしれません。この空の広がりを前にすると、理由もなく胸がざわつき、懐かしいような、少し切ないような感覚に包まれます。父と母が、石炭の煙と雪明かりの中で交わした言葉や、寄り添った夜を想像します。彼らが見上げた空の色は、今の私が見上げる灰色と群青のあいだの色と、どれほど重なり合うだろうか。時間とは、まるで大地の層のように、静かに、そして確かに重なっていくのです。

今回、私は「夕張国際ファンタスティック思い出映画祭2025」の音響映像技術の運営でこの町を訪れました。会場では、新しい世代の映画人たちが、冬の訪れを待つ町のように息をひそめながらも、確かに光を宿していました。再建を掲げた新体制の運営委員の方々のまなざしは真っ直ぐで、その情熱に、私は静かに頭を下げました。映画というものは、人が人を信じる営みの連なりです。スクリーンの向こう側に誰かがいると信じて、カメラを回す。その信じる力こそが、地方の小さな映画祭を支えているのだと思いました。

日が傾くころ、映画館の外に出ると、夕張の空が再び灰色に染まり始めていました。安穏とも、不穏ともつかぬ雲が、重なりながら流れていきます。ふと、ここに生きる人々の時間もまた、この雲のように、ひとつとして同じ形をしていないのだと感じました。

資本という名の風は、地方をあっという間に通り過ぎていきます。だれも悪くはない。けれど、その風はいつも、あたたかい息を奪っていく。それでも人は、ここで暮らし、灯をともす。映画をつくり、語り、笑い、再び歩き出す。広すぎる空の下で、ちっぽけな人間たちが、それでも息をしている。あの東京の空の下で座標を探し、息苦しさを感じていた私にとって、この「在るがまま」の営みこそが、生きるということの、静かな美しさなのだと思いました。