―― 二〇二五年、舞台芸術における音響技術と身体知の断絶をめぐって ――
二〇二五年の今、舞台芸術と古典芸能の音響環境は、相反する二つの極へと急激に進化しています。一つは、スマートフォンとイヤフォンで完結する個人の聴取空間の縮小。もう一つは、イマーシブサウンドやドルビーアトモスを用いた大規模劇場の没入型体験への拡張です。
これらは見かけ上対立しますが、実際は「音を通して人間の知覚を再構築する」という点で共通しており、その橋渡しこそ、舞台音響や録音の現場で働く技術者が担ってきました。
しかし、その中間を支える現場が急速に崩壊しています。大規模ホールは最先端装置を導入する一方で、中小劇場や実験的な公演空間は、設備更新と人材確保の困難から次々と縮小・閉鎖に追い込まれています。新人監督や若手演出家が作品を試す場を失い、音響家が演出と向き合う時間を削られている。結果、技術の発展が、かえって表現の入口を狭めるという逆説が生じています。
この構造的問題の根底には、技術進化と教育の非同期化があります。新しい音響技術を理解し扱える人材を育成する体系が整わず、学校教育は旧来のカリキュラムに留まっています。一方、現場を支えてきた熟練技術者は高齢化し、後進を育てる時間的・経済的余裕を失いつつあります。
この断絶は、弊所、神宮前レコーディングスタジオのような小規模かつ実験的な現場においても、喫緊の課題として顕在化しています。こうして、「音響を設計する人」と「音を鳴らす人」の間に身体知の断絶が生まれ、舞台芸術における最も繊細な文化の継承が途切れようとしているのです。
音響技術の本質は、機材の操作やデシベル管理ではありません。それは、人と人、人と場との関係をデザインする技術です。舞台音響家は、演出家の意図を読み取り、俳優の声の重心を支え、観客の集中を導く。録音技師は、演者の呼吸を読み取り、空気の密度を整える。これらはすべて、「耳の教育」と「手の教育」という身体知によって成立します。
「耳の教育」とは、空間そのものを聴く力です。劇場の椅子の材質、季節の湿度、客入りによる残響の変化——それらを身体で感じ取り、音を合わせる感性です。「手の教育」とは、フェーダーを上げる速度、マイクスタンドの角度、ケーブルを巻く順序に宿る礼節であり、「舞台を敬う」という意識の表れです。この二つの教育が途絶えたとき、技術は残っても、音の“呼吸”は消えてしまいます。
音響の継承が途切れたとき、まず失われるのは「席ごとの聴こえの設計」です。観客の位置によって変わる残響の量、その「差」を設計する感覚が失われます。次に、「間(ま)と静寂の扱い」が崩れます。音を鳴らすことよりも、鳴らさない時間を作るという**音響の倫理**が失われるのです。俳優の発声の重心を見抜く耳、袖幕や床下のノイズを制御する手、電源を入れる順序に込められた安全意識——こうした知恵の総体が、数値化できない技術の核心です。
録音データや機材リストが残っても、それだけでは不十分です。舞台音響は、可視化された設計図よりも、聴く人と空間の関係性そのものに宿る文化だからです。また、整音や配信の過程で磨かれすぎた音が“本物の上演”として記録されると、現場で生まれた偶然や空気の振動が「不要なノイズ」として消去されてしまう。それは、**文化的な偽遺物の生成**に他なりません。
技術と感性の断絶を防ぎ、身体知を継承するためには、数値(工学的情報)と比喩(感性的語彙)を並立させて記録することが必須です。理論と詩の両立こそが、音響の文化を次世代に伝える唯一の方法です。
具体的には、以下の実践が考えられます。
これらは単なる記録方法ではなく、耳の文化を社会に開くための制度設計です。音響は“裏方”ではなく、作品の世界観を支える**文化技術**であるという認識が必要です。実際、舞台音響家の人件費や教育研修費は公的助成の対象外となることが多く、技術者が生計を立てにくい構造があります(文化庁「舞台芸術における専門人材育成調査報告」2024)。音響を単なる技術職ではなく、**文化資産の担い手**として再定義することが急務です。
音響の本質は、いつの時代も変わりません。それは「聴こえ」「意図」「安全」という三つの基準を等しく満たすことにあります。録音物は現場の代替ではなく、現場への招待状である。音を再現することが目的ではなく、**音を介して“人と場の関係”を届ける**ことが、音響技術の使命です。
技術の暴走を止めることはできません。しかし、技術に**「人の敬意」**を取り戻すことはできます。耳と手を通じて音と向き合うその作法こそが、音響の文化を生かし続ける源泉です。
神宮前レコーディングスタジオが、その作法を「書き」「聴き」「やって見せる」場所であり続けるならば、たとえ装置や環境が変わっても、音響という文化は決して死にません。それは、機械の精度ではなく、人の呼吸に宿る「**敬意と作法の記録**」だからです。