2025年10月現在、音楽、映像、ナレーション、放送といった広範な表現文化は、ある種の「二極化」が鮮明になりつつあります。一方の極は、TikTokやYouTube Shortsに象徴される大量生産型の短尺コンテンツです。これらはプラットフォームの経済合理性とアルゴリズムに駆動され、効率性を極限まで高め、わずか数秒で消費者の注意を奪うことを目的としています。
他方の極は、作家性に根差した長編作品や物語的な楽曲群であり、制作者の背景、思想、人生観といった人間的な厚みを深く投影した表現が、むしろ「情報のノイズ」に疲弊した鑑賞者から支持を集めています。本稿では、この二極化の現象を整理し、その文化的・芸術的な意味、そして表現行為そのものの存在理由を検討いたします。
まず注目すべきは、短尺コンテンツの急速な普及と、その背後にある経済的な論理です。TikTok や Reels、YouTube Shorts は数十秒単位の音楽や動画を中心に再生数を稼ぎ、特に若年層の文化消費の中心に位置するようになりました【note, 2025】。
この傾向は、音楽作品の制作を「いかに最初の十秒で耳を惹きつけるか」という単一の目標に収斂させました。結果、メロディの展開や言葉の深みよりも、フックの強さやキャッチコピー的な響きが優先され、楽曲のイントロや展開は過剰なほどに単純化されています。
映像領域でも、字幕生成から翻訳、吹き替えに至るまで自動化技術が普及し、短期間で膨大なコンテンツを生産する仕組みが整備されています【Global Growth Insights, 2025】。この大量生産のシステムは、プラットフォームが追求する滞在時間と広告収益の最大化に直結しています。一見、文化の民主化に映るこの状況は、同時に作品の均質化を進行させています。生成されるコンテンツの多くは「誰が作ったか」を問われず、アルゴリズムの要求に応える消費材として、瞬時に忘れ去られる存在となっているのです。
対照的に、こうした短尺文化による「情報のノイズ」に疲弊したリスナーや視聴者の一部は、物語性や作家性の濃厚な作品に能動的に回帰しています。2025年上半期の音楽ランキングにおいて、Mrs. GREEN APPLE の「ライラック」が Spotify 国内最再生曲に選ばれ、カラオケランキングでも上位を占めたことは象徴的です【Spotify Newsroom, 2025】【JOYSOUND, 2025】。
同曲が評価された理由は、フックの強度に加え、歌詞に込められた物語性や感情的厚みにあります。そこには単なる効率的な娯楽を超え、作家の人生観や時代感覚が深く投影されています。さらに、YOASOBI と Le Sserafim による「The Noise」【Wikipedia, 2025】のように、国際的なコラボレーションと文学的な物語性を融合させた作品も、その背景や意図を含めて熱狂的に受容されています。
これらは、効率や即時性に抗い、むしろ「誰が、どのような背景で作ったか」という作家性そのものを強調する方向にあると言えます。長編アルバムやコンセプト作品が再評価されている現象も、断片化と均質化に対する鑑賞者側の揺り戻しとして、作家性を求める欲望が顕在化していることの証左です。
この二極化の根本には、「人間性がどの程度介入しているか」という決定的な差異があります。
素材を収集し、再構成するという意味では、人間と機械、あるいは大量生産システムは同じプロセスを踏むかもしれません。しかし、人間の制作者が行う再構成には、必ず思想、感情、文化的素養といった内面的な「業」が入り込みます。その人間の痕跡こそが作品に宿り、聴き手や観客にとっての感動や深い共鳴の源泉となるのです。
反対に、均質化する大量生産型の仕組みや、人間的意図が最小化されたコンテンツは、その「人間的な混入」を極力排除します。結果として生み出されるコンテンツは、効率的で即効性がある一方、どこか透明で、心に残らない印象を与えます。ここに「作家性があるか否か」という問題が直結しているのです。
この二極化を考える上で重要なのは、現代の表現ツール、特に生成AIなどの技術を「誰が、どのようなリテラシーで扱うのか」という点です。
文化的・芸術的な素養と、明確な表現哲学を持つ主体が制作に関われば、AIをはじめとするどのような道具を用いたとしても、そこに思想や人生観が刻み込まれます。その主体性は、作品を単なる模倣や表層的なものにとどまらせません。
しかし、リテラシーや哲学を欠いた主体が表現の手段を扱うと、成果物はデータセットの平均値に依存した模倣的で表層的なものにとどまりやすいのです。結局のところ、作品の価値を左右するのは道具そのものの性能ではなく、道具を介して表現する主体の素養と、世界観へのコミットメントであると言えます。
この二極化は今後も加速する可能性があります。短尺で大量に生産されるコンテンツは、プラットフォームの経済モデルや広告領域において不可欠であり続けるでしょう。
しかしその一方で、作家性に根ざした長編作品やコンセプト性を持つ表現は、文化的厚みを求める受け手によって支持され続けるはずです。両者は単なる対立ではなく、文化を構成する二つの必須の軸として並存していくと考えられます。
最終的に問われるのは、「表現を行う主体が、何のために作品を生み出すのか」という根源的な問いです。この問いに真摯に向き合い、効率や拡散性よりも表現の必然性を追求するとき、作品は均質化を超えて、存在理由を持った表現へと昇華します。そしてそれこそが、作家性の核心であり、人間が表現を続ける文化的「業」そのものなのです。
2025年の表現文化は、「大量生産型の短尺コンテンツ」と「作家性を重視する長編作品」という二極化によって特徴づけられています。前者は経済合理性と効率性に優れ、拡散性を持ちますが、均質化のリスクを抱えています。後者は人間性に根差した厚みを備え、聴き手や観客に深い共感をもたらします。この二極化は、単なる消費習慣の変化ではなく、AI時代の制作ツールと鑑賞者の意識変容を背景に、表現行為そのものの存在理由と価値を根源的に問い直す現象であると結論づけられます。