2025年の文化環境を観察すると、資本経済と行動経済の両面で「二極化」が進行していることが明確に見て取れます。大型公演や国際的なイベントには巨額の資本が集中する一方、**中規模**(動員200〜800名程度、予算500万〜3,000万円程度)や地域規模の祭礼・公演は、物価高騰や人件費増大により縮小や中止を余儀なくされています。同時に、消費者の行動も「短尺動画による即時消費」と「長尺作品やライブ公演による没入体験」という二極に分かれ、中間的な規模や時間感覚を持つ文化活動が成立しにくくなっています。
この状況は、現代の経済構造や行動パターンが生み出した**外的な現象**であり、芸術そのものの本質を示すものではありません。本稿では、芸術が本来持つ文化的連続性を確認しつつ、現在進行している二極化現象の要因と、その認識を誤った場合に生じる危機について論じます。
芸術は本来、人間の業や本能に基づく営みとして始まりました。歌い、踊り、描くといった身体的表現は、特定の資本や制度に依存するものではなく、共同体の中で自然に生じるものでした。日本においても、民謡や盆踊りは農耕や生活の営みと結びつき、人々が声や身体を通して共同体の一体感を確認する文化装置として機能してきました【宮本常一『日本の民俗』未来社, 1961】。そこには、プロとアマの境界や大規模と小規模の分断は存在せず、表現すること自体が文化的価値を持っていました。
やがて突出した表現者が共同体内で認められ、その活動が貨幣経済と接続することで商業化し、舞台芸術や音楽産業へと発展していきました。この歴史的な流れを整理すれば、芸術は「表現衝動 → 共同体的承認 → 商業化 → 文化定着」という循環の中で発展してきたといえます。この過程は二極化を前提とせず、むしろ**普遍性**と**特異性**が連続するダイナミズムによって豊かさを生んできたのです。
しかし2025年現在、この文化的循環は外的要因によって遮断されつつあります。
円安と物価高が制作コストを押し上げ、大規模企画に資金が集中する一方で、**中規模**や地域規模の事業は縮小や中止を強いられています。一般社団法人全日本テレビ番組製作社連盟の調査によれば、制作コストの上昇に対して「十分に価格転嫁できている」と回答した制作会社はわずか6%に留まっています【全日本テレビ番組製作社連盟『制作会社の制作環境に関する調査』2024】。また、兵庫県内の祭礼や花火大会では、物価高や人件費の増加により開催中止や隔年化が相次いでいると報じられています【NHK関西 NEWS WEB「兵庫 各地で祭りや花火大会が中止に」2025年9月】。
消費者の行動は「短尺の軽消費」と「長尺の没入体験」の二峰化に分かれています。若年層は日常的に短尺動画やSNSによる即時的な満足を享受しつつ、特別な場面ではライブやフェスに強い価値を置いています。他方、中高年層はむしろ生演奏や生声による現場体験を重視する傾向を強めています【文化庁『メディア芸術白書2024』】。
さらに、近年発展著しい**生成AI**は、表現の初期段階におけるコストを劇的に下げる一方で、「短尺・即時消費」のコンテンツ供給を加速させています。これにより、プロの技術と資本を必要とする「大規模」と、技術的障壁が低減された「即時生成」のコンテンツに分断が起き、**中規模の文化体験**(例:小劇場の舞台、地域の小規模音楽祭など)は、最も選ばれにくく、脆弱な位置に置かれています。
これらの二極化現象は、芸術の本質ではなく、外的な経済・制度・技術の影響であることを冷静に認識する必要があります。もしも「芸術は巨額資本を必要とする産業か、あるいは即消費される軽量コンテンツでしかない」という誤認が定着すれば、芸術の根源的な意味が歪められてしまいます。芸術はあくまで人間の**表現衝動**と**共同体的承認**に根差す営みであり、経済や技術はその周縁に作用する要因に過ぎません。この認識を欠いたままでは、芸術は単なる経済の鏡像に矮小化されてしまう危険があります。
この現実を受け止めた上で、課題は**「中規模の健全な営みをどう成立させるか」**にあります。具体的には以下のような方策が考えられます。
さらに、地域の民謡や郷土芸能のように「共同体全員が参加する仕組み」を現代に応用することも、中規模の存続に資する**橋渡しの仕組み**になり得ます。これには、企業や行政が地域アーティストの活動を定常的に支援する「コミュニティ・アート・サポート・プログラム」の創設などが含まれます。
2025年の文化環境において、二極化は確かに顕著な現象として進行しています。しかし、それを芸術の本質と誤解してはなりません。芸術は本来、人間の業や本能に基づく**普遍的な表現衝動**と、**共同体的承認**による文化的連続性の中に存在しています。二極化を外的要因として冷静に把握しつつ、**中規模の営み**を意識的に支え、芸術を「分断に橋を架ける主体」として再確認すること。これこそが、2025年以降に芸術表現の意味を守り抜くために求められる基本視座であると考えます。