2025年現在、音楽制作の現場は歴史的な岐路に立っています。生成AIの普及とソフトウェアによる自動補正の高度化は、レコーディングスタジオの在り方そのものを根本から揺るがしています。特にボーカルのピッチ補正は、まるで空気のように無意識に導入される標準処理となり、若い技術者にとって「エンジニアの仕事とは編集と補正である」という誤った認識が広がりつつあります。
しかし、録音技師(サウンドエンジニア)の本質は本当に補正にあるのでしょうか。歴史的に積み重ねられてきた技術者の役割を見直すとき、答えは明確です。その本質は、演奏と響きをどう捉え、どう忠実に記録するかにあります。補正はその周縁にある補助技術に過ぎず、これに過度に依存することは、教育の構造を歪め、技術者の責任範囲を曖昧にするという、深刻な危険をはらんでいるのです。
一部の制作現場では、補正を「必須の業務」として組み込む流れが加速しています。これは、限られた時間と予算の中で、歌唱力や演奏力のばらつきを補い、商品としてのクオリティを保証するための不可欠な工程と見なされています。特にクラウドベースのサービスや低価格帯の制作では、補正は手戻りを防ぐ効率化の手段であり、顧客もこれを当然視しています。
その一方で、熟練のエンジニアや教育機関に近い環境では、補正を「演奏の本質を変えるリスクを伴うオプション」と位置づける立場が強く残っています。彼らにとって、録音技師の仕事は「補正に頼らざるを得ない音を作らないこと」であり、補正は録音・ミキシングの本質業務から明確に切り離されるべき編集工程です。補正は芸術的な「不完全さ」や「偶然性」を消し去り、音楽の魅力を損なう危険性があると考えられています。
録音技師の職能は、黎明期から一貫して「演奏と空間を忠実に、最大限の音質で記録すること」に置かれてきました。アナログ録音の時代には、技術者にはそもそもピッチを直接操作する手段が存在しませんでした。ピッチ補正ソフト(Auto-Tune)が登場したのは1997年、一般的な制作環境に普及するのは2000年代以降であり、補正技術は、録音の本質的な業務ではなく、デジタル化によって後から追加された補助的な手段に過ぎません。
著名な録音技師たちは、この本質論を裏付けています。彼らの哲学は、「不完全さや偶然性を音楽として成立させる耳と技術」にこそエンジニアの真価があることを示しています。
現代の教育現場で、補正ソフトの扱いが「必須スキル」として強調される一方で、マイク選択、音響空間の制御、そして演奏者との対話といった基盤技術が軽視されがちです。補正技術に偏った教育は、技術者を単なる編集者(エディター)へと矮小化し、「補正不要の音を引き出す力」というエンジニアの真価を育む機会を阻害してしまいます。
日本の著作権法はAI学習利用を柔軟に認めつつ、生成物や改変物の利用・責任については、最終的な行為者(人間)に帰す方向性を示しています【文化庁, 2018; JASRAC, 2024】。AI法が重視するのは「誰が主情報を改変したか」です。
ピッチ補正は、アーティストの演奏データという主情報に対する明確な改変行為にあたります。エンジニア自身が補正を担う場合、その技術的な判断が改変責任を直接問われる可能性があります。これは「補正は当たり前の作業」という現場の慣習と、法制度が示す責任構造との間に大きな矛盾を生じさせています。
かつての制作現場では、テイクの選定や補正判断(改変の意思決定)はディレクターやプロデューサーが担い、エンジニアは指示を忠実に実行する技術者という立場にありました。
この伝統的な分業は、**改変の責任所在を明確化**し、技術者の職能を守る仕組みとして機能していました。AI時代、自動補正ソフト(AI)が改変判断の一部を担うようになるからこそ、エンジニアが過度に改変責任を背負い込まないためにも、**演奏者・ディレクター・エンジニアの役割を再整理する**という分業性の再構築が必然となります。
これから録音技師を志す若い人々にとって、AI時代に淘汰されない真価を確立するために、以下の姿勢が不可欠です。
「ピッチ補正はサウンドエンジニアの本質業務ではない」という仮説は、**歴史、思想、実務、法制度**の全方位的な検証によって、その妥当性が裏付けられます。
補正偏重の潮流に流されることは、技術者としての**職能の矮小化**と**責任の曖昧化**を招きます。AIが前提となる時代だからこそ、録音技師は「**忠実な記録者**」としての矜持と、**不完全さをも音楽として成立させる耳と技術**を磨き続けなければなりません。それこそが未来の音響技術者に求められる本質であり、**補正によっては決して置き換えられない、人間固有の価値**なのです。