藤原亮英 テキスト集

サウンドエンジニア・サウンドプロデューサー 藤原の雑記

「膝を折る」身体性の喪失と録音業界の技術者不足 ― 制度改革、技術進化、文化変容をめぐって

序論

録音業界は現在、深刻な技術者不足に直面しています。この問題は単なる人材確保の課題にとどまらず、制度改革や労働環境の改善、技術革新、文化的価値観の変容、そして録音という営みの身体性の喪失にまで根ざした複合的な問題です。本稿では、制度的要因、技術的進展、文化的背景の変容を整理し、その上で録音行為の身体性の価値を再評価しながら、業界の持続可能性について考察します。

制度改革と労働環境の変化

録音業界を含む制作現場では、長時間労働や低単価取引が長らく慣行として存在してきました。これに対して総務省は「放送コンテンツの製作取引適正化ガイドライン(第8版)」を公表し、連続稼働日の上限や休日の確保、「つながらない権利」の保障などを明示しました【1】。また文化庁による映画・映像分野のガイドラインや作品認定制度も、契約条件や安全管理を作品単位で可視化する取り組みを進めています【2】。さらに2024年11月施行の「フリーランス保護新法」では、契約条件の明示や報酬支払い、ハラスメント対応などが義務化され、フリーランス比率の高い録音技術者に直接的な影響を及ぼしています【3】。

これらの制度改革は労働者の保護や適正取引の実現に資する一方で、短期的には現場の人員需要を高め、教育やOJTに割ける余力を縮小させる副作用を伴っています。適正化を進めれば進めるほど、より多くの人材を確保しなければ現場が回らないという逆説的な状況を招いています。

技術革新と教育の困難

録音技術は急速に高度化しています。AoIP、Dolby Atmos、ADM BWF、リモート制作、さらには生成AIを取り入れたワークフローなど、従来の専門性を超えるクロススキルが求められています【4】。こうした技術の多層化は教育や研修の負担を増大させ、協会や業界団体の講習制度だけでは十分に対応できない状況を生み出しています。さらに労働環境の改善によって現場で「見て学ぶ」OJTの機会が減少したことは、結果として若手技術者の即戦力化を著しく遅らせる一因となっています。

一方で、舞台や放送、ライブの分野でも人材不足が深刻化しており、同じ音響人材を複数の市場が取り合う状況が生まれています【5】。そのため繁忙期には人材確保が一層難しくなり、録音スタジオの稼働や教育計画に直接的な制約をもたらしています。

文化変容と「身体性」の喪失

2000年代初頭まで、音響専門学校に進学し、録音スタジオで働くことは若者にとって大きな憧れでした。ミュージシャンと同じ空間で音を作り上げる体験は「青春の象徴」として共有され、エンジニアという職業も社会的に認知されていました。しかしCD市場の縮小とストリーミング中心の収益構造への移行によって、スタジオでの制作時間は削減され、宅録や簡易収録が普及しました。結果として若手が現場で肌感覚を通して技術を習得する機会は急速に失われ、録音を「仕事として夢見る」文化的な土壌は希薄化しました。

さらにインターネットとSNSの普及により、若者の関心は映像制作や配信へとシフトしました。加えてAIによる自動ミックスやマスタリングが一般化し、「誰でもある程度の音作りができる」という幻想が広がりました。その結果、録音技術の専門性は社会的に見えにくくなり、職業としての魅力を十分に伝えることが難しくなっています。

この文化変容と並行して進んだのが、録音現場における「身体性」の喪失です。マイクスタンドを数センチ動かす、床に膝をついてマイクを設置する、演者の隣で呼吸のリズムを感じ取りながらモニターレベルを調整する――これらはすべて身体を介して音と人をつなぐ作業です。AIは数値的な補正は可能ですが、空気の揺らぎや演者の一瞬の緊張を身体で受け止め、判断に反映させる有機的な能力は持ちえません。

録音現場で「膝を折る」という行為は、単なる姿勢ではなく、演者と同じ高さに視線を合わせ、同じ空気を吸い込みながら音を聴く姿勢の象徴です。この身体性が軽視されることで、録音の本質的な価値が見えにくくなり、若者が再びこの道を志す可能性を奪っています。

結論

録音業界の技術者不足は、

  1. 制度改革による適正化要求の強化と人員需要の増大、

  2. 労働環境改善による育成余力の縮小、

  3. 技術進化の加速による教育負担の増大、

  4. 舞台・放送分野との人材競合、

  5. 文化的背景の変容による夢の希薄化、

  6. 録音行為に内在する「身体性」の価値の社会的な軽視、
    といった複数の要因が複雑に絡み合った結果です。

業界に求められているのは、制度遵守と労働環境の改善に加え、録音技術の有機性と身体性を社会に伝え直すことです。録音という仕事が「目指す価値のある仕事」であることを若い世代に示し、文化として継承していくことこそが、録音業界の持続可能性を支える鍵になるのです。


出典

【1】総務省「放送コンテンツの製作取引適正化ガイドライン(第8版)」2024年10月18日公表
【2】文化庁・映画製作者連盟等による映画分野のガイドライン・作品認定制度
【3】特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(フリーランス保護新法、2024年11月施行)
【4】日本ポストプロダクション協会(JPPA)事業計画・AoIPや新規媒体対応に関する報告
【5】舞台業界における人材不足に関する業界インタビュー(2025年、未公表資料。公的統計に基づく厳密な検証は困難である)

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