2025年9月6日 
神宮前レコーディングスタジオ
藤原亮英

芸術か消費か ― 音楽をめぐる世代間断絶とレコーディングの未来

2025年、私たちは音楽文化の歴史における大きな分岐点に立っています。かつてCDや出版物を中心に成立していた収益モデルは、数字の上で完全に崩壊しました。日本レコード協会の統計によれば、2024年のCDアルバム生産数は前年比12%減少し、出版科学研究所の報告でも紙の出版物の売上は5%以上の減少を示しています。かつての「所有」モデルは、もはや経済的基盤として持続できないことを如実に物語っています。

その一方で、サブスクリプション型のストリーミングサービスを中心としたデジタル配信は急成長を続けています。Spotify、Apple Music、Amazon Musicといったプラットフォームは、音楽を「物理」から切り離し、クラウド上に漂うデータとして提供するようになりました。結果として、音楽は人々にとって「手にするもの」ではなく「流れてくるもの」へと変容しました。

しかし、この変化は単なるフォーマットの違いにとどまりません。もっと根深いところで、音楽体験そのものを変質させています。アナログ的な制作過程、つまり人間的なひらめきや試行錯誤がもたらす新しい音楽の組み合わせは、時に予想もしない革新を生み出してきました。

ところがAI時代の音楽制作は、過去の作品を統計的に学習し、それを再構成することによって成立しています。これは便利で効率的であると同時に、創造性を「再生産」に限定してしまう側面を持っています。AIからショパンは生まれない――この言葉が象徴するように、革新的な飛躍を担うのは依然として人間であるにもかかわらず、市場はAI生成音楽で埋め尽くされつつあります。

さらに、ここにスマートフォン文化が加わります。現代の若者にとって、音楽は「所有するもの」ではなく「断片的に消費するもの」へとシフトしました。Spotifyの調査によれば、日本のZ世代の72%が「音楽はながらで聴くもの」と答えています。TikTokの音楽利用実態調査では、18〜24歳の約65%が「音楽を知るきっかけはショート動画」と回答しています。

この状況は、世代間の音楽体験の断絶を鮮明にしています。現在の20代前半の世代は、コロナ禍を青春期に過ごし、スマートフォンを通じて他者とつながる文化を当たり前としました。彼らにとって音楽は「芸術」ではなく「コミュニケーションの潤滑油」であり、関係性を築くための道具です。

一方で、上の世代にとって音楽は「人生を変える芸術」でした。レコードやCDを所有し、ブックレットを読み込み、アルバム全体に没入する。そこにあったのは、時間をかけて作品世界と向き合い、音楽を人生に刻むという体験です。

こうして「芸術としての音楽」と「消費としての音楽」が対立軸として浮かび上がります。芸術を重んじる視座から見れば、AIとスマホ文化は音楽を空洞化させる存在です。消費を肯定する視座から見れば、音楽は代替可能であり、他のエンターテインメントと並列化されても構わない存在です。

しかし、この議論の根底には見落としてはならない重要な論点があります。音楽はデータや記号ではなく、有機的な物理的解釈の上にしか成立しないという事実です。音楽とは空気の振動であり、耳や皮膚や骨を通じて身体に響く現象です。

この有機性は、音楽を単なる情報から区別する決定的な要素です。低音は胸や腹を震わせ、高音は神経を刺激します。リズムは脳波や心拍と共鳴し、旋律は記憶や感情を呼び覚まします。音楽とは「耳で聴く」だけのものではなく、身体全体で感じる有機的な経験なのです。

呼吸の乱れや演奏の揺らぎ、声の震えや楽器のタッチの強弱――これらは有機体としての人間だけが生み出せる要素です。そして、それを忠実に記録し、社会に渡すのがレコーディングスタジオとエンジニアの役割なのです。

ここで改めて問われるのは、この音楽の物理と有機性をどう未来に残すかです。スタジオは単なる録音空間ではなく、人と人とが出会い、空気を共有し、その瞬間の有機的な響きを永続させる場所です。

AIが生成した音楽がどれほど市場を埋め尽くしても、スタジオで録音された「その人の声」「その場の空気」「その瞬間の演奏」は唯一無二です。効率とコストが支配する配信時代だからこそ、真正性を保証するスタジオの役割はさらに重要になっています。

したがって、芸術か消費か――この問いの答えを決めるのは市場ではなく、私たち人間の選択です。そしてどちらに振れたとしても、音楽が有機的な物理的解釈に基づいて存在し続ける限り、レコーディングスタジオとエンジニアの存在は決して消えることはありません。