日本版AIガバナンスの現在地とその矛盾
― AI法をめぐる制度設計とレコーディング・スタジオ業界の視座からの批評 ―

公開日:2025年9月5日

神宮前レコーディングスタジオ
藤原亮英

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はじめに

2025年、日本において「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」(以下、AI法)が制定されました。この法律は、生成AIの急速な普及と、それに伴うリスクの増大に対応するための基本法として位置付けられています。AI戦略本部を新設し、AI基本計画を策定することで、国家としての推進と規律の枠組みを整えることを目的としています【1】。

しかし、推進と規制を同時に内包する制度設計は、技術開発を進めながらも社会的リスクに対処するという二律背反の課題を抱えています。本稿では、AI法制定の背景を整理し、制度の骨格と矛盾を批評的に検討したうえで、さらにレコーディングスタジオ業界における今後の展開と課題、国際比較、そして日本の音楽業界特有の文化的背景との関係について論じます。

1. 制定の背景――生成AIの拡散と社会的リスク

AI法成立の背景には、生成AIの急速な普及と、それに伴う社会不安があります。

  1. ディープフェイク被害の拡大。 本人同意のない音声や顔の模倣が深刻な被害をもたらし、社会的に強い不安を引き起こしました【2】。
  2. 著作権や人格権をめぐる摩擦。 文化庁が解説するように、著作権法第30条の4は情報解析目的での著作物利用を一定条件で認めていますが、権利者の利益を不当に害する場合は適用外とされています【3】。
  3. 虚偽情報と世論操作のリスク。 国際電気通信連合(ITU)は、AI生成メディアが偽情報拡散の媒体となり得ることを指摘しています【4】。
  4. 国際的な圧力。 欧州連合は2024年に包括的規制「EU AI Act」を成立させました【5】。
  5. 国内の制度的空白。 研究開発偏重の政策から、リスク対応や救済の枠組みを整備する必要がありました。

2. 制度の骨格――「推進型ガバナンス」としてのAI法

AI法の特徴は、罰則を設けず、調査・助言・指導・情報提供を通じて適正利用を促す「推進型ガバナンス」を採用している点にあります【6】。AI戦略本部を司令塔とし、AI基本計画を定期的に更新することで、社会と技術の変化に柔軟に対応できる仕組みを整えました。

しかし、これは同時に曖昧さを孕みます。法的拘束力は弱いものの、国際規範との整合を理由に「事実上の強制」として事業者に圧力を与える可能性があります。形式上は自由を確保しているように見えても、実務では拘束力に近い影響を及ぼし得るという矛盾です。

3. 制度の問題点――推進と規制の二律背反

  1. 「罰則はないが実務は拘束される」逆説。 助言・指導が国際規範や商慣行と結びつき、実質的な遵守圧力になり得ます。
  2. 推進と規制の二律背反。 研究開発の推進と、透明性・同意取得等の規制要請が同時に課され、現場の速度を制約し得ます。
  3. 人材と資本の偏在。 大企業に比べ、小規模事業者は契約・ログ管理の負担が相対的に重く、二極化を招く恐れがあります。

4. 今後の展望――透明性と国際整合の必然化

今後、透明性や同意取得は「推奨」から「事実上の義務」へと変化していくと見込まれます。特にディープフェイクや人格権侵害への対策が強化され、制作物における表示義務の導入が検討される可能性があります。またEU AI Actや米国州法(例:テネシー州のELVIS Act)との整合が求められ、日本の制度も国際基準に合わせた改正が繰り返されるでしょう【7】。

5. レコーディングスタジオ業界における今後の展開と発展予想

(1) AI補正・AI生成との共存

AIによる自動補正、歌唱合成、ノイズ除去などが標準化し、「AIが整え、人間が仕上げる」二段階ワークフローが定着する見込みです。スタジオの付加価値はむしろ高まります。

(2) スタジオの社会的信頼性の向上

透明性や同意取得の徹底はブランド価値と直結します。「安心してAIを使える現場」であることが選定基準になります。

(3) 教育・研修の新たな役割

録音技術に加え、AIモデルやガイドラインの理解が必須になり、スタジオは「制作現場」かつ「教育の場」として機能します。

(4) 国際案件への対応拡大

EU圏向け案件ではAI Act準拠の透明性表示が求められる可能性があり、国際対応できる体制が強みになります。

6. 業界が直面する問題点と解決方法

(1) コスト負担の偏在

標準契約書・標準ログ様式の策定や共有プラットフォーム整備で負担を軽減します。

(2) 顧客の過剰要求

透明性の範囲を業界で標準化し、公開部分と秘匿部分を明確に区分します。

(3) 倫理的判断の曖昧さ

第三者機関・専門家との連携窓口を整備し、個別案件の判断を支援します。

(4) 人材不足への対応

教育プログラムの拡充と大学・業界団体との連携で人材基盤を構築します。

7. 国際比較――EU・米国・アジアとの対照

(1) EU AI Actとの比較

EU AI Actはリスクベースの包括的規制で、分野ごとに義務水準を定めています【5】。日本のAI法は罰則やリスク区分を持たない推進型ガバナンスであり、自由度の高い一方、国際取引では「規制水準が低い」と見なされる可能性があります。

(2) 米国のアプローチ

連邦の包括法は未整備ながら、大統領令に基づく指針や州法が先行。テネシー州は「ELVIS Act」(2024年施行)で声の無断模倣を禁止し、契約での声の利用許諾が重要性を増しています【7】。

(3) アジア諸国の動き

中国・韓国・シンガポールは表示義務や認証制度の導入が相対的に早く、国際案件では厳格基準への準拠が求められます。

(4) 国際比較から見える日本の課題

柔軟さを生かしつつも、国際基準とのギャップを自主的に埋める対応が不可欠です。

8. 日本の音楽業界特有の文化的背景とAI規制の相性

(1) 職人主義と現場主義の伝統

「耳で覚える」「現場で学ぶ」文化は、記録・説明責任を求めるAI規制と摩擦を生みやすい側面があります。

(2) 歌唱文化と「声」の特別性

日本では「声」への価値付けが強く、AIによる声の模倣は感情的反発を招きやすい独自課題です。

参考・出典

  1. 内閣府 科学技術・イノベーション「AI戦略:AI法 概要・関連資料」 — ページ
  2. 参議院 内閣委員会「AI法 附帯決議」(2025年) — 本文
  3. 文化庁「著作権法第30条の4 解説・関連資料」(2024年) — 報告書PDF
  4. 国際電気通信連合(ITU)「Generative AI and Misinformation」関連ページ(2024年) —