神宮前レコスタ!ブログ

サウンドエンジニア・サウンドプロデューサー 藤原の雑記

中平卓馬の写真スタイルの変遷とその理由-考察

1960年代の中平卓馬は、森山大道らと共に『プロヴォーク』誌を通じて、アレ・ブレ・ボケと呼ばれる質感の写真を提示しました。街頭の雑踏、群衆のざわめき、被写体との物理的な距離感や緊張感が、そのまま粒子の荒れやピントの揺らぎとなって画面に刻まれていたのです。それは写真を単なる現実の写しではなく、現実に切り込む鋭利な行為として提示するものでした。偶発性と意図が混ざり合い、どこまでがコントロールでどこからが偶然なのか判別できない領域こそが、当時の中平の写真の魅力だったと思います。

この揺らぎへのアプローチは、同時代の音楽にも通じていました。サウンドエンジニアの世界では、アナログテープを素材とした切り貼りや逆回転、フィードバックやエコーの実験が日常的に行われていました。ビートルズの『Tomorrow Never Knows』や、ピンク・フロイドのサウンド・コラージュは、写真のブレや荒れと同じように、制御しきれない偶発性を作品の核に据えていたといえます。録音も写真も、同じ時代の空気を吸い込みながら、偶然を作品化する感性を共有していたのです。

しかし1970年代に入ると、その荒れや偶発性からは距離が取られ、より構築的で洗練された方向へと舵が切られていきます。アメリカン・ロックも、ザ・バンドのような有機的で土の匂いがするサウンドから、イーグルスのようにソリッドで整然としたカントリーロックへと変わっていきました。録音技術の向上は、音楽をよりクリアで均質なものにし、偶発的なノイズや揺らぎは「取り除くべきもの」になりました。中平卓馬の写真もまた、晩年には植物図鑑的な極度にクリアで静謐な描写へと移行していきます。荒れやブレは排され、対象は細部まで鮮明に捉えられ、偶発性よりも確定性が優先される視線となっていきました。

この確定性や清潔さは、現代のホワイト社会や無菌社会の感覚とつながっていると感じます。曖昧さやノイズは不安要素として排除され、安心して受け取れる視覚や聴覚体験が求められるのです。音楽では、デジタル録音によるノイズレスな音や、AIによる均質なマスタリングがその象徴といえます。かつて作品の魅力だった「不完全さ」や「予期せぬ揺らぎ」は、今では修正すべき欠陥として扱われやすくなりました。

2019年末からのCOVID-19は、この無菌化傾向をさらに加速させました。接触や混沌への忌避は、物理的な衛生意識にとどまらず、表現や情報の領域にも及びました。写真における光の滲みやピントの甘さ、音楽におけるフィードバックやマイクのかぶり音といった偶発的要素は、かつては人間味や現場感の象徴でしたが、コロナ禍以降は「不要なリスク」に分類されやすくなったのです。中平卓馬の後期の写真は、そのような社会的感覚を先取りしていたかのように、曖昧さを排し、対象を純化し、滅菌された視線で提示しています。それは無菌社会に適応した表現であると同時に、その閉塞感を静かに映し出すものでもあると感じます。

偶発性の美学は、現代において希少な資源になりつつあります。AI時代の音楽制作や写真表現では、ノイズやブレは容易に除去でき、均質なクオリティが誰にでも再現可能になりました。だからこそ、あえて偶発性を呼び戻し、制御しきれない領域を作品に残すことが、逆説的に価値を持ち始めています。


AI時代の偶発性の再導入

2025年の制作現場では、AIが圧倒的な正確さと均質さをもたらしています。写真ではAI補正がブレや色かぶりを瞬時に修正し、音楽ではAIミックスがバランスを整え、不要なノイズを自動で取り除きます。こうした進化は便利である一方で、すべての作品が「同じ質感」に近づいてしまう危うさを抱えています。

その中で注目されているのが、「意図的に偶発性を導入する」というアプローチです。録音では、マイクの配置や空間ノイズをあえて残し、演奏の揺らぎや人間的な癖を取り入れる。写真では、光の滲みやピントの甘さをあえて活かし、被写体との距離感や偶然の瞬間を強調する。こうした手法は、AIがもたらす均質さの中に、唯一無二の表情を取り戻す試みです。

中平卓馬が歩んだ「偶発性から確定性へ」という道を、現代は逆方向から辿る局面に入っているのかもしれません。無菌化された現代社会において、揺らぎやノイズはもはや欠陥ではなく、個性そのものとして再評価され始めています。それは、AI時代の創作における新しい倫理であり、私たち技術者や表現者に課された重要なテーマだと感じます。

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