AIが人間の「代わり」ではなく、「共創者」として語られるようになった2025年。
その中で改めて注目され始めた言葉──それが「魂」ではないでしょうか。
私自身、いわゆる体育会系的な根性論や精神論には距離を置いてきました。
しかし、AIの進化が進めば進むほど、「人間らしさの本質」として、この“魂”という言葉が再評価される場面が増えてきていると感じています。
では、「魂」とは一体何なのでしょうか?
今回は、「精神論的な魂」と「感情論的な魂」、そしてAIという存在を軸に、「魂の再定義」を試みてみたいと思います。
【1. 「魂=精神論」への違和感】
日本では長らく、「魂」という言葉に根性論や精神論が結びついてきました。
「気合いでやり切る」
「精神力が足りない」
「根性で乗り越えろ」
こうした言葉は、時に人を勇気づけもしますが、時に追い詰めてもきました。
特に私のように、音楽制作や表現の世界に身を置く人間にとっては、そうした“精神論的”な魂の扱われ方に、少なからず違和感を覚えることが多かったのです。
【2. 「感情論としての魂」が見直される理由】
一方、2025年の現在。AIが音楽や文章を生成する能力を身につけてきた今、人間の側にしか残っていないものとして、「感情」や「共感」が注目されています。
AIには、自意識も感情も、内省もありません。
感情を模倣することはできますが、感情を“持つ”ことはできないのです。
この差異が、逆説的に「魂とは、感情を持ち、共鳴し、揺らぐ存在である」という感覚を私たちに思い出させてくれているのかもしれません。
【3. 魂は“精神論”ではなく“情緒の揺らぎ”へ】
2025年以降、AIと人間との共存が進む中で、
「魂とは何か?」という問いは、単なる宗教的・哲学的なテーマではなく、日々の実務や表現活動にも密接に関わる問いになってきました。
たとえば、以下のような問いを私たちは日々受け取ります。
AIが生成した音楽に“魂”はあるのか?
感情のないナレーションは、人を動かせるのか?
書かれた言葉に、筆者の意志が宿っていなければ、それは誰の声なのか?
これらの問いに答えようとするとき、私たちが拠り所にするのは、「努力」や「根性」ではなく、
もっと繊細で曖昧な「感情の温度」「共鳴の質」「声の揺れ」なのではないでしょうか。
【4. 実務の現場から見えてくる“魂”の実像】
神宮前レコーディングスタジオでは、AI生成楽曲の手直しや、AIナレーションの質感調整といった仕事も増えてきています。
その中で実感するのは、「どんなに正確でも、心が動かない音は“届かない”」という現実です。
声の“間”
微妙なブレスの位置
言いよどむような語尾の揺れ
そうした“非論理的なゆらぎ”にこそ、「人間らしさ」や「魂」が宿ることを、日々の現場で痛感しています。
【5. 哲学・宗教・テクノロジーの交差点】
宗教哲学の分野でも、AIが登場したことで「魂とは何か」という議論が再燃しています。
AIには魂はあるのか?
魂とは意識か?自我か?感情か?
カトリック神学者、禅の思想家、哲学者たちの間でも様々な見解がありますが、共通しているのは「魂は人間にしか宿らない」という立場です。
一方、Techno-animism や Techno-spiritualism といった潮流では、「AIが魂の器たり得るか」というテーマも浮上しています。
このあたりは、今後さらに複雑で繊細な倫理的問いを生んでいくことでしょう。
【6. 魂の再定義──まとめとしての視点】
私自身の立場を整理すれば、こう言えるかもしれません。
「魂とは、根性や精神の強さではなく、“感情が揺れる余白”のことではないか。」
精神論的に“耐える”のではなく、感情論的に“揺らぐ”
AIが“模倣”できても、“感じる”ことはできない
“感じること”こそが、魂の所在
今後、AIがどれだけ進化しても、この“揺らぎ”や“矛盾”が宿るのは、人間だけなのではないか──
そんな想いが、私の中に強くあります。
【結びに】
魂という言葉を、これまで「根性論」や「気合い」といった古い価値観と結びつけていた方も、
これからの時代においては、それを「感情の輪郭」「共感の力」として再定義する必要があるのかもしれません。
AIのいない時代には、魂は当たり前のように「人間にだけ宿る」ものでした。
しかし、AIが私たちの生活のあらゆる領域に入り込んだ今だからこそ、「魂とは何か?」を、私たちは改めて問い直さなければならない時期に来ているように思います。
【文責・企画】
神宮前レコーディングスタジオ
藤原亮英(サウンドエンジニア・プロデューサー)