2014年の「佐村河内守事件」は、日本の音楽界における“作者性”の問題をあらわにしました。そして2025年現在、AIを使って音楽を制作することが一般化しつつある中で、私たちは再び“誰が作品を作ったのか”という問いに向き合う局面を迎えています。本稿では、過去の事件と現在のAIプロンプト文化を比較しながら、“作者”とは何かを改めて考えてみたいと思います。
2014年に明らかになった佐村河内守氏の“ゴーストライター問題”は、多くの人に衝撃を与えました。当時、彼は「聴覚障害を持つ天才作曲家」として広く知られていましたが、実際には作曲家の新垣隆氏が長年にわたって代作を行っていたことが判明しました。
この問題が深刻だったのは、単に代作行為が行われていたという点ではありません。佐村河内氏が“自らの物語”として障害や苦悩、芸術への献身を語り、それが音楽の価値として社会に消費されていたことにこそ、大きな倫理的問題があったとされています。
2025年現在、AIによる音楽制作が一般化しています。メロディやハーモニーをAIに生成させる“プロンプト型”の作曲法は、特別な技能がなくても、誰もが作曲者として作品を発表できる時代をつくり出しました。
しかし、ここには佐村河内事件と似た構造が存在しています。すなわち、「実際に手を動かして創作した者」ではなく、「それを操った人」が“作者”として認知されるという構造です。
両者に共通しているのは、「創作者の物語」が作品の価値を大きく左右するという点です。AIプロンプターもまた、自らのビジョンや意図、バックグラウンドを語ることで、作品の“文脈”を補強しようとしています。
もちろん、AIと人間のゴーストライターは本質的に異なります。AIには人格も意志もなく、法的にも著作権者としては認められていません。そのため、「AIを使った人が作者である」という考え方は、現時点では制度的に認められています。
しかし、ここには重要な倫理的問いが潜んでいます。
たとえば、AIが自動生成した作品に、プロンプターがどこまで“自らの創作性”を主張できるのか。あるいは、その作品が高い評価を得たとき、「なぜその作品が生まれたのか」という物語は、誰によって語られるべきなのか。
佐村河内事件で私たちが学んだのは、「物語と作品は切り離せない」という現実でした。2025年のAI時代においても、作品の“出自”は評価の一部として受け止められつつあります。
プロンプターは、単なる指示者ではなく、語り手でもあります。そして、AIが生成した音楽であっても、そこに込められた「意図」や「背景」を物語として編み直す力を持っているのです。
私たち神宮前レコーディングスタジオでは、AIを活用した音楽制作も、アナログな手作業による調整やエンジニアリングも、ともに尊重しています。大切なのは、どのような技術を使うかではなく、それを用いて“何を伝えようとしているか”です。
誰が作ったかではなく、“なぜその音がそこにあるのか”。
その問いを胸に、私たちは今日もサウンドと向き合っています。
AIが作った音楽に、私たちは誰の声を聴いているのでしょうか。
その音は、誰の物語を語っているのでしょうか。
あなたが“創作”に求めるものは、何ですか?