ロックミュージックというジャンルに、特別な意味や抵抗感を持たなくなった若い世代が増えてきたように感じます。
「この音、なんかエモい」──それだけで十分なのかもしれません。2025年のロックと若者たちの耳の関係を、少し掘り下げてみました。
● ロック=思想の時代は、終わったのか
かつてロックは、「権威への反抗」や「自分の思想を叫ぶためのツール」として使われてきました。
それは政治的な運動や反戦メッセージ、カウンターカルチャーとしての歴史と深く結びついていました。
しかし、2025年の若者たちは、その「背景」や「意味性」を必ずしも重視していないように見受けられます。
むしろ「難しいことはいいから、気持ちよければいい」「コード進行が沁みる」「MVの世界観がエモい」──そうした“感覚的な評価”が中心にあるように思います。
● 「メジャー/インディーズ」の区分は、すでに崩れている?
CDショップの棚で分かれていた“ジャンルの壁”は、ストリーミングサービスやYouTubeによって溶けてしまいました。
誰でも楽曲を公開でき、再生数で判断され、プレイリストによって“タグ付け”される──この構造の中では、「どこから出ている音楽か」はあまり関係がなくなっています。
結果として、「あのバンド、メジャーだっけ?」「へぇ、インディーズだったんだ」など、後から気づく情報になってきています。
● ロックをロックたらしめる“音”だけが、かろうじて残っている
若者たちは、おそらく“文脈”としてのロックにはあまり関心がないのだと思います。
それよりも、ギターのざらつきや、ドラムの抜け感、シャウトの切実さといった「音の印象」に反応しているように見受けられます。
それは一見、表層的な楽しみ方のようにも思えますが、実際にはとても本能的で素直な反応なのかもしれません。
● YouTube世代は、我々以上にロックの“音像”に晒されて育っている
過去のライブ映像、MV、弾いてみた、歌ってみた、カバー、リアクション動画──
この時代の若者たちは、1970年代のロックも、1990年代のUKロックも、2000年代のエモも、すべて“フラットに”同じ画面で浴びています。
つまり、音楽における「時間軸」の感覚が薄れているのです。
我々が「伝説」として見ていたアーティストを、彼らは「昨日見つけたかっこいい音楽」として捉えています。
● 技術者の立場から見ても、“エモい”の正体は無視できない時代に
エモーショナルである、というのは音の構造以上に、リスナーとの関係性で決まります。
もはやジャンルや文脈ではなく、“出音”の感触、音像のディテール、リバーブの深さ、そういった要素が「エモさ」を構築しているように感じます。
録音やミックスの現場でも、「意味」より「肌触り」を優先する場面が増えてきました。
● 「エモい」で十分。それは感性の再獲得。
もしかすると、若者たちは「思想の道具としてのロック」を手放したかわりに、“感性のアンテナ”を再獲得したのかもしれません。
ロックが「言いたいことがある人のジャンル」だった時代を経て、
今は「感じたい人が選ぶ音」になってきているのだとしたら──
それもまた、新しいロックの在り方なのかもしれません。